彼岸花試験圃 2024 年秋

2024 年 8 月 15 日

やはり 32 ビットがよかった

「漢字多元説」について主張を纏めて文書にしようと試みたのだけど、現状の Unicode の漢字統合、例えば「骨」の統合は失敗だった、というここ三十年来の世間の主張を私も本格的に認めることにした。違和感を覚える東アジア人、特に日本人が多いのだからそういう認識を認めるのが相応だろう。

そして、Unicode にせよ UCS にせよ少なくとも最初から 32 ビット確保し、そこに字体の異なる「骨」や「骼」を数種類登録する方が賢明だったと思う(現状の Unicode で「魚」「鱼」は単体でも偏旁でも統合されていないのに「骨」が統合されているのは或る意味、不思議である)。

但、漢字を日中韓台越……といった国(言語?)毎に異なる「用字系」と看做すのが適切なのかは疑わしい。その意味では「皮」のような国とか言語に関わらず殆ど字体の異ならない漢字を幾つも登録する意義があるのかも疑わしい。苟も重複登録したとしても所謂「異体字シソーラス」で同一視できるが……

「用字系」に関する混乱

「日本漢字」と「中国漢字」が別の用字系だと思っている人は、諸橋大漢和の漢字をどちらだと思っているのだろうか。中型の漢和辞典にも、一つの漢字に漢文での用法と日本語での用法が載っている訳だけれども。

太田昌孝氏に至っては「万葉集では中国漢字スクリプト[渡邊註:用字系]により日本語が表記されて」いる、と言っているが、太田氏は『万葉集』を読んだことがあるのだろうか? その『万葉集』には「左骨」のような「『中国漢字』特有の字体」があったのだろうか?

2024 年 8 月 18 日

「楽」とか「栗」とか「木脚」の斜めの画は止めるべきか、払うべきか迷う。学校の教師の間でも統一されていないのでは。

「止め撥ね」の問題、中学か何かの生徒が集って国語教師に問う番組、あったような。

2024 年 8 月 29 日

パラリンピックに思う

昔流行った雑学本で「ISO 2022 のエスケープシークエンス」を「オリンピックの入場行進の旗手」に喩えた人がいた。

言語学の基礎の基礎だが、言語や文字の分布と、行政区画としての国土は一致しない。特に「グローバリズム」が進んだ現代では、どこの国でどの民族がどの言語で通信するか、断定できない訳だ。日本でも韓国系のキリスト教会のバザーでは、威勢の良い韓国語が飛び交っている(こんな所でキリスト教の威を借りていいのかは知らないが)。

それ故に某太田氏の「日本漢字」と「中国漢字」と「韓国漢字」と……の峻別、なる主義にも懐疑的にしかなれない。

皮肉とは

母が「変な言葉遣いをわざわざ造るのが趣味になっている」と遂に自称するに至った。「言葉の正しさ」を求める文士様方の努力が虚しい。「ザメンホフみたいですね」と皮肉をかましてみたが、通じなかった。今思えば譬喩としても適切かどうか。

2024 年 8 月 31 日

曖昧な

昔 Twitter に「『曖昧な』を意味する英語を最低三つ(四つだったかも知れないが)知らないと早稲田にすら受からない」というツイートが流れてきた朧な記憶がある。

ambiguous しか知らないから岡╳理╳╳学しか受からなかった、なんて自虐は、デカダンスですかね。obscure は後で憶えた。

2024 年 9 月 2 日

理系の人に「『対』はタイが音読み、ツイが訓読み」だとか「『対』はタイと読む場合とツイと読む場合で意味が違う」って勘違いしている人が多いって話、しましたっけ。

2024 年 9 月 14 日

合字

ラテン文字に於いては、「Æ」とか「Œ」のような文字を「合字」という。個人的には「W」も立派な合字だと思うが、直観に結びつかない人もいるかも知れない。

で、漢字に関しては私は複数の文字を組み合わせた、強いて六書で言えば会意や形声の過程を経て成り立った文字は全て合字で、要するに「林」も「休」も合字だと思うのだが、時々「音も組み合わさった文字が合字」と主張する人がいて、具体的に「麿」や「粂」を指すらしい。

Æ とか Œ 、ラテン語の古典古代にはありましたっけ。ラテン語の教科書に載っていることが少ないので、二重母音を融合させて発音するのが公式になった中世以降に用いられるようになったとばかり思っていましたが。但『テルマエ・ロマエ』の表紙には『THERMÆ ROMÆ』と書いてあったような。

あと、Æ に関してはデンマーク語でも用いる訳ですが、あれは二重母音とか融合した音でしたっけ。よく知りませんが。

Unicode の文字合成を指して「合字」と呼ぶ人もいるからややこしい。

2024 年 9 月 16 日

もろとぼろ

餓鬼の頃、例の牧師夫人が「ユダヤ教では肉と乳を一緒に食べるのが禁止されている、故にチーズバーガーも駄目」という話題で「親子丼なんかもろに駄目だよね」という日本語を発した。実際後で調べた所、禁止されているらしいが、それより牧師夫人の「もろ」という日本語の使い方が不自然な気がした。

それから岡山時代末期、父が「朱倫が『岡山理大はぼろ』だとか言いだして―」と言ったのだが、勿論私はあれを「ぼろ」なる日本語で形容したことはない。「ぼろ」って「古ぼけている」って意味じゃないんですか。旧帝大の方が古ぼけていませんか。あの「ぼろ」も備後辯か何かなのだろうか。

2024 年 9 月 23 日

「共存」を「きょうそん」と読む日本語話者と「きょうぞん」と読む日本語話者は、脳裏に同じ言語体系――ソシュールの謂うラング、と同義か――を有していると言えるだろうか。

一億余千万人の日本語話者の間の脳裏に全く同じラングが存在する、という発想こそ不自然だと思うのだが。

要するに、ラングの一部が多少異なる話者同士が会話しても――互いにパロールを発し合っても――人はその相違を再解釈する能力を備えているのではないか、と。

これが特に日本語の文字言語に於いては甚だ顕著なのだけれども。どの語を漢字で書くか、どんな漢字で書くか、が人によって異なることを日本語話者(筆者?)は痛感しているだろう。

2024 年 9 月 27 日

図書館で『漢字の中国文化』(冨谷至編、昭和堂)を借りる。曰く「伐」は甲骨文では「戈で人を殺伐する形」であり「『戈』と『人』を組み合わせて造ったのならば会意となろうが、『人』を『戈』で撃つ様全体を象っているならば全体象形字となろう」と(p. 13)。

楷書や明朝体の偏旁構造から直ちに甲骨文の偏旁構造を導き出すことはできない訳だ(「疇」はより顕著な例)。

2024 年 9 月 28 日

昨日の漢字の話の続き。Unicode にしても「IDC(Ideographic Description Character、漢字記述文字)」と謂って例えば「埼」という漢字を「⿰土⿱大可」のように表す「文字」がある。ところが昨日言及した「伐」を「⿰人戈」と書くと楷書や明朝体としては理に適っていても、甲骨文では同じような表現ができない(因みに、Unicode では現役の漢字とは別に甲骨文字を登録する予定がある)。

2024 年 9 月 29 日

某宗教の教祖が呼び出した孔子の霊が「ニイハオ」と喋り、それを或る大学教授が「『ニイハオ』は清朝末期から民国期にかけて普及した挨拶」だと指摘した。二千年以上前からニイハオなんて挨拶がある訳が無い、と思うのは容易い。ソクラテスは古典ギリシア語を喋り、キケローはラテン語を喋った。どちらも現代ギリシア語やイタリア語とは異なる。

但、「孔子が漢文を喋った」というのは語弊がある。漢文は音声言語を元にして造られつつも、文面に特化した言語である。因みに漢文は漢民族の間でも様々な「読み」で読まれ、例えば現代中国(中華人民共和国)の「語言」の授業では北京語音で読まれる。日本の漢文訓読は翻訳の一種である。無論、どちらも孔子が「口にした」音声言語とは異なる。

「某宗教の教祖のような勘違いを正したい」という願望故か、今更になって「古代中国の方言」に興味がある。『漢字の中国文化』の第二部第二章「秦漢時代の文字と識字」に多少の言及があって、そこそこ興味深い(具体的な復古音などが書かれた章ではない)。但、正に「論語読みの論語知らず」というか、単なる雑学になる気がしなくもない。

取り敢えず普通話の勉強をした方がいいだろうか。アメリカなどと同様、中国という国とも対峙せねばならない、と、大真面目に考えている節がある。

2024 年 9 月 29 日

「百科的な」分類?

「漢字の成立と発展」(『漢字の中国文化』)に於いて、形声字の義符が表す対象を著者・大川俊隆氏自身は「類的義」と呼び、河野六郎氏による「意味範疇」という呼称にも言及している。

私が思うに、形声字の義符は相当、曖昧な代物だと思う。

鮪、鯛魚の種
鰓、鰭魚の器官
鮓、鱠魚の料理

ここに挙げた漢字の「魚」という義符は字全体の意味が「魚に何かしら関わる」ということを抽象的に表すに過ぎず、「魚とどう関係するのか」は多様である。

故に私は以前より義符を「字義の百科的な分類を表す偏旁」と頭の中で定義していた。しかし今思えばそういう定義もともかく「百科的だ」という形容動詞が存在するか、或いは造るのが適切かどうかは微妙である。

片仮名と俗語

「自己中心的」を「自己中」と略すのも大概だが、「自己チュー」と「中」だけ片仮名で書く理由が見当たらない。ジコ中とかジ己中とか自コ中ではいけないのか。

「借用語ハ片仮名デ書ク」トイウノハ戦後漸ク普及シタ習慣デアッテ、或ル語ガ「人類史ヲ通ジテ借用トイウ過程ヲ全ク経テイナイ」コトヲ証明スルノハ考古学的ニ不可能ナノデ、「借用語ハ片仮名デ書ク」トイウ規則ヲ貫徹スルコトモ又不可能デアリ意義ガ無イト思ウ(アヽ、歴史的仮名遣ヒデ書キタクナツテキタ)

片仮名自体、成立当初は役人とか学者とか僧侶といった知識人の文字であって、俗語を片仮名で書くべきだとか、書いた方がよいというののも意義がないどころか個人的には目障りですらある。お高く止まるつもりはないはずだけど、何だか。

2024 年 10 月 1 日

『漢字の中国文化』に誤りが綴られていたので指摘しておく。最新版では訂正されているかも知れないが。

余談であるが、近代になり、ヨーロッパより、新発見の化学元素が中国に伝えられたときにも、その化学元素名の翻訳には、この形声造字法が用いられた。例えば、natorium や ozone は、各々冒頭の音、na と o を取り、これらの近音の「内」と「羊」の字を当て、これに natorium の属性を考えて偏旁金を、ozone の属性を考えて偏旁气を当て、各々を組み合わせて「鈉」「氧」という文字を造ったのである。形声の造字法はこのように近代まで用いられ続けたのである。

――『漢字の中国文化』p.39

先ず、「鈉」が表す元素の名前はラテン語では natrium である(o が余分)。他のヨーロッパの言語でも概ねこれに準じ、例えばドイツ語でも Natrium と綴る。英語では sodium という呼称が一般的。

又、「氧」は オゾン(英 ozone、O3)ではなく酸素(英 oxygen、O2)の義である(同素体ではあるが)。又「氧」という文字の字源であるが「生物を養う気体」という意味で「養」の声符「羊」を採って義符「气」を加えたもので、発音は yǎng(漢語拼音)であり ozone の o とは関係無い。

十五年近く前の本だが、訂正を確認できるだろうか。

2024 年 10 月 5 日

「『函』なんて漢字を憶えるのは億劫だから『函数』は『関数』と書き換えましょう」という主張に函館市民が怒らない不思議。

2024 年 10 月 6 日

「ルフィ」と書いて「ルフィー」って読むの、いまだに不自然に思えるけど、架空の固有名詞だから今更突っ込むのは野暮ですかね。現実で云うと「八ッ場ダム」みたいな。

「ルフィ」は架空でなくなった、なんて怖い話は禁止。[12 日改変]

2024 年 10 月 12 日

寄席文字の㫃垂

落語とか笑点とかに親しんでいる人ならお気付きかも知れないが、「遊」の「㫃垂」は、寄席文字では「 F 」のような形をしているのである。旗の形を意識して「再象形」したのかも知れない。さて、JIS や Unicode の「遊」は寄席文字の字体を包摂していると言えるだろうか。

之繞の無い「旋」の垂や単体の「㫃」が寄席文字で「 F 」になるか否かも気になる。

江戸文字と地域と言語

落語は日本の文化であって、寄席文字が主に「日本」国内で「日本語」に用いる書体、字体体系であることは事実であろう。「中国で寄席文字を用いる」「中国語に寄席文字を用いる」事象は、相対的に少ない。

但、例えば中国人が日本の落語に興味を持って、落語を「中国語」に訳して「中国」で演ずる可能性も皆無ではないのであって(英語で落語を演ずる落語家は既にいるようだ)、例えば「日本語」ではあまり遣わないが「中国語」(普通話)でよく遣う「」(「勝つ」の意)等の寄席文字が設計される、或いは既にされている可能性もあり得る。

因みに、以前格安小売店のドン・キホーテで出口专用(出口専用)という中国語が相撲文字で掲げられていたのを見たことがある。

「寄席文字(風?)のハングル」もあるのだろうか。寧ろわくわくする。

偏旁名

「人偏」を「にんべん」、「行人偏」を「ぎょうにんべん」と、偏旁の名前を平仮名で書く習慣はどこから来たのか。因みに現代日本で用いられる偏旁名(「部首名」と呼ぶべきではないと思う)は日本で平安期だか鎌倉期だかに成立した呼称だとどこかの本で読んだ(記憶が曖昧なので正確な情報を求む)。現代中国語(普通話)では左側でも「○○旁」と呼び、例えば「人偏」を「单人旁」と呼ぶ。

阿辻哲次氏は『近くて遠い中国語』で「ヘンやツクリ」と片仮名で書いていた。正に「変」というかなんというか。

因みに安岡孝一氏も「ヤヤコシイ」等片仮名を多用する癖をお持ちだが、京大の漢字界隈の風潮なのだろうか。

2024 年 10 月 12 日

魯迅の『故郷』の「猹」を引き合いにして「日本漢字」や「中国漢字」なる「異なる用字系」が存在するのか否かを論ぜようと思ったけど、書くにも混乱するので止めた。

太田氏の本(『いま日本語が危ない』)、「『日本漢字』と『中国漢字』と『韓国漢字』は別の用字系」とか「『日本漢字』『中国漢字』『韓国漢字』の相異は『ギリシア文字』『ラテン文字』『キリル文字』の相異に相当する」という主張を最初から当たり前の大前提の如く話を進めているのが残念だった。そこを説明しないと納得できないし、そもそもそういう大前提が正しいのかどうか。

太田氏、三画草冠と四画草冠を「露骨に異なる」と言ってみたり、その違いを辨えなければ「多くの日本人は「誤字だ」と思うだけ」とか主張していたので(『いま日本語が危ない』pp.175, 176)、却って現代日本人、特に書道の心得のある人と認識を異にしている。

「用字系の峻別」に「時代による違い」は考慮しなくてよいのだろうか。太田氏、「万葉集は中国漢字」と主張しているが、太田氏のいう「万葉集」はいつの時代の写本や印刷本なのだろうか。少なくとも執筆当時は「康煕字典体」だの「新字形」だの、況や「簡化字」なんて概念は無かった。

万叶集が「中国汉字」なら、现代日本语を「中国汉字」で书くのも认められて然るべきだろう。

「可読性」の観点から「用字系」を峻別するならば、行書と楷書も峻別した方がよい。