昔から言おうとしていたのだが、「1000 万」とか「一〇〇〇万」という数の表記が嫌いだ。「10000000」「千万」「107」でよい。
「位取り記数法」と「数詞的記数法」をごちゃまぜにする理由が解らなくて、落ち着かないのである。私が校閲者なら、この手の表記はみっちり訂正してやる。
「10000000」とか「千万」というのは全体で一つの数であって、「1000 万」だの「一〇〇〇万」だのといった表記は数の表記の体系を破壊している。
この手の書き方を容認する奴は「万」とか「億」とかを「数の単位」と認識しているらしい。林檎だって蜜柑だって「三個単位」や「五個単位」で売れば「三」や「五」が「数の単位」になると思うのだが。少なくとも、メートルとかグラムとは全く異質の概念である。
数学の世界では、「単位」という言葉自体、虚数に於ける i が「虚数単位」と呼ばれることからして、実数の単位(英 unit < 羅 unus)は 1 しかないだろう。
日本語の漢語に(北京語等もそうだが)同音異義の形態素(語の最小単位)が余りに多いのは広く知られている(その多くは、各々意味によって漢字に対応する)。
例えば日本語話者は「はんまるくすしゅぎ」という音を聞いてもそれが「半マルクス主義」なのか「反マルクス主義」なのか迷う。英語ではそれぞれ「hemi‐Marxism」と「anti‐Marxism」なので解り易い(大文字小文字やハイフンの要不要はここでは論じない)。「遍在」「偏在」などは極端な例であろう。「市立」「私立」は「いちりつ」「わたくしりつ」と和語を用いることで衝突を回避する例であるが、「半マルクス主義」や「遍在」は主に文章語に現れる語なので、口頭で誤解を回避するのは難しい。
ダライ・ラマ十四世は「富の再分配には賛成だが、唯物論には反対」という理由で「半マルクス主義」なのだそうだ。
和菓子や雪見だいふくに用いる「求肥」は「牛皮」の当て字だという。質感に由来する語であろうが、一体何分の日本語話者が「求肥」について語る時、脳裏で「求肥」を「牛」と「皮」という二つの形態素に分けて解釈しているだろうか。どちらかというと「求肥」全体であの食材の意味と捉えている者こそ、相当多かろう。
通時的に「牛 + 皮→牛皮→求肥」の如く二形態素と解釈しても、「求肥」という熟語全体を一形態素と解釈しても、現代の日本語話者は「求肥」について語り得るのである。
よく「形態素」の例として挙がる「はるさめ」「きりさめ」の「さめ」も、日本語話者の脳裏で共時的に「あめ」の異形態としてにんしきされているかも、疑ったほうがよいと思う。
「さめ」が「あめ」の異形態と認識されているのには、漢字で「春雨」「霧雨」と書くのと無関係ではないであろう。表音主義的な点字で日本語を読み書きする視覚障碍者などが「さめ」を「あめ」の変形と思っているかどうか(「漢点字」というのはあるらしいが)。
「通時的形態素」「共時的形態素」みたいな概念があってもいいと思う。cranberry の cran なんか正に前者だろう。
Access の『Moonside Dance』って曲、energy を /enəd͜zɪ/ みたく発音しているらしくて、何だか。
現代ギリシア語とか韓国語では、少なくとも文字に於いては d͜z と d͡ʒ を弁別しないから、要するにこれらの混同は世界的に見て珍しい現象ではないのだろうけど。
2012 年頃、父が私をフィジー在住の牧師に預けるとかいう話があって、若し実現していたらはちゃめちゃなことになってたと今も思うのだけど、父が「フィジー」をわざわざ /fiziː/ と発音して止まず、かといって私もフィジーっていう国名やフィジーの言語に詳しいわけでもないので只管困惑した。
久々に Unicode の漢字統合について論ずる。例の野嵜健秀氏が四半世紀前に、漢字統合に対する批判をばっさり斬り捨てている。
日本、支那、韓國の漢字を統合すると云ふ方針にいきり立つ人間がゐる。同じ漢字なのだから統合されてしかるべきなのだが、いまだに民族主義的な思想を持つ人間は、民主化された現代日本にも少くないらしい。
――野嵜健秀『文字コードの不毛な議論』、「PC Tips」
自らを「民族主義的な思想を持つ人間」扱いされて困惑する「反漢字統合論者」は、昔も今も皆無ではないだろう。『いま日本語が危ない』の太田昌孝氏などは「比較文化論的なディベート」をわざと避けて漢字統合を批判した。無論、比較文化論を避けたが故に、太田氏の批判にも説得力が缺ける。
一方野嵜氏についても「超近代の思想」で「天皇を失くしたら、我々日本人は何を拠り所にすればいいのだろうか」「拠り所のない人間は、狂人である」などと説く一方で、自らを「民族主義者」と称さないのも或る意味、不思議に思う。
文字と民族を関連付けようとすると、どうしても例外が生ずると私は考える。日本人が ABC と英語を習得し、幾らイギリス人やアメリカ人やその他諸々の民族と会話できても、日本人は帰化しない限り(帰化しても?)イギリス人にはなれない。その意味で、文字と民族は或る程度相関こそすれど、完全に相関する訳ではない。
私が知る限り「漢字は言語毎に峻別されるべき」という主張をする者が少なくないようだが、少なくとも「漢語」(広義の「中国語」)は単一の言語ではないし(中国政府も「八大方言」を認めている)、日本語も津軽辯と薩摩辯は相通じないことが広く知られているから、数十系統に峻別しなければならない。又ラテン文字やアラビア文字も何百系統にも峻別しなければ辻褄が合わない。
普通話、或いは台湾華語を学んでいる人は、次の日本語を普通話や台湾華語に訳せるだろうか。
昨日小峠英二が穝に往きました。
小峠英二というのはグルメ番組「おもうまい店」の司会である。また穝というのは岡山市の地名で、(何の変哲もなく)「さい」と読む。「峠」も「穝」も国字とか和製漢字と呼ばれる、日本語話者が発明した文字である。
手書きで最も無難に訳すとすれば「小峠英二」とか「穝」といった固有名詞を変形させず、他の部分を日本語から北京語や台湾華語に変換するのが妥当だろう。
難点は「峠」や「穝」をどう発音すればよいかである。「峠」については台湾に「寿峠」という日本統治時代に設定された地名が残っており、旁の「𠧗」が「卡」に似ていることから「kǎ」と読むようだ。又「𡶛」という字体もある。「穝」のような文字も「主要な偏旁から音を採る」のが一般的らしいから多分「zuì」だろう。
昨天小峠英二去穝。
ここでは敢えて日本・中国・台湾の各行政規範毎に余り字体の変わらない文字を選んだが、台湾の規範(台湾正字体)の「最」は頭が「冃」の如く横画が縦画から離れているらしい。すると「『穝』の旁にも『最』と同じ字体を適用すべき」という主張と「日本の固有名詞なのだから日本の字体を尊重すべき」という主張のジレンマが生ずる。猶、台湾には細かい字体の違いを余り気にしない人が多く、テレビのテロップでも一画面に平気で「二点折れず之繞」と「一点折れ之繞」が混淆することがある。
「滑川」という名字の人が UTF‐8 のプレーンテキストで普通話の自己紹介文を作り、Simsun の如き普通話用のフォントを適用すると、「滑」の旁の「骨」が「左骨」になる(なってしまう)。
いや、何もコンピュータだの Unicode だのに関わらず、滑川さんが手書きで普通話の自己紹介文を作ろうとすると「普通話話者は左骨を遣っているのだから私も左骨を使おう」と思う者と「人名は聖域だ、私の名前は飽く迄右骨の滑川だ」と思う者の両方が拮抗し兼ねない。
そしてこれは滑川姓に限らない。私を含めた渡辺姓も日本の役所に「渡邊」と登録してあろうと「渡邉」と登録してあろうと、之繞等の字体がどうであろうと、中国では基本的に「渡边」と書くのが習慣になっているのである。
他、歌人の佐佐木幸綱氏は中国で「々」が通じないことを知って「佐々木」から「佐佐木」に改名したという。
但、何れにせよ英語で自己紹介をするとなると、漢字なんかを使わずにローマ字(ラテン文字)で「Namekawa」「Watanabe」「Sasaki」と書かざるを得ない。
「『日本漢字』『中国漢字』を混同すると日本語が危ない」と主張する太田昌孝氏と「カンジワフヨウダ」と主張するカナモジカイの人々との間ではどんな議論がなされるであろうか?