『いま日本語が危ない』寸評集を書いた。
論文の体はなしていない。箇条書き。
イギリスのロックバンド「QUEEN」は台湾華語では「皇后」と謂うらしい。
それだと EMPRESS になりやすまいかとも思うが、エリザベス二世と紛らわしいから敢えてこう訳したとも推測できる。
日本人にせよ中国人にせよ台湾人にせよ、漢字筆者は、例えば「林」という漢字を「『木』を横に二つ並べた文字」と認識している。「偏は右下の画を止めるが、旁は右下の画を払う」という理由で「『林』の偏と旁は別物」と主張したら、ひねくれ者扱いされる。
ともかく、所謂会意字や形声字は「幾つかの要素となる文字(説文に拠る所の「文」)を組み合わせた文字」という認識は、漢字の知識の多寡を問わず根強い。
一方、例えば「則」という文字は甲骨文や金文にまで遡れば「鼎」と「刀」から成るのだが、楷書や明朝体くらいしか用いない現代人の大半は「貝」と「刀」から成ると思い込んでる者のほうが多数だろう。しかも「何故鼎と刀から成るのか」という「字源」については、学者にすら推測しかできない。
早い話が、現代人が文字を何らかの言語を綴るのに用いるのに字源は然程重要ではないのである。ソシュールは語源などを扱う「共時言語学」と、一時代に於ける言語の相を扱う「通時言語学」を峻別し、後者を言語の本質としたが、こういう考えは漢字の字源にも応用できるのである。(ラテン文字などならば猶更である。「A」の字を書く度に「牛」を想起する必要は無い)
「漢字統合」の問題でなかなか顧みられないのが「漢文」の存在である。小野妹子や阿倍仲麻呂が隋や唐の皇帝と交わした書翰は果たして「日本漢字」だろうか「中国漢字」だろうか。
太田昌孝氏は『いま日本語が危ない』p.74 で「ユニコードに現在含まれている漢字と称するものは『日中韓統合漢字スクリプト』、つまり誰もいまだかつて使ったことのないスクリプトに属する漢字」と述べているが、遣隋使、遣唐使、日明貿易、朝鮮通信使、唐人屋敷など、前近代の日中韓の文化交流の場で用いられた漢文の漢字こそ「日中韓に分化していない(或いは、分化を抑制した)漢字」ではなかろうか。
慥かに『危ない』p. 118 には「日本の漢文の教科書の多くでは日本漢字スクリプト(いわゆる教科書体)で中国語が表記されている」とも述べられているが、これは現代的な現象であろう。
但し書風に関しては平安時代頃には和様・唐様の違いが認識されていたらしいし、「峠」「働」のような和製漢字(国字)の成立も新しくはない。
和田英一という人が書いた『Unicode は好きですか?』という Unicode 批判論文を読む(例に漏れず 1998 年という大昔の論文である)。Unicode を「拳銃、麻薬、エイズ」に喩えたり、再批判に「日本中、Unicode が好きな人はいないわけだし、好きというのは余程どうかしている人」と述べたり、なかなか辛辣。
太田氏にしてもそうだが、台湾の文字集合を引き合いに出して Unicode の 16 ビット固定長が破綻することを予言していたのはあっぱれと思う。
いやさ、私が十歳の頃は Unicode なんて知る由もないけど、パソコン少年になった中学生くらいの頃には MS‐Word の文字コード表に面白い文字、例えば IPA(国際音声字母)が収録されているのを見て幼さ故にキャースゲーと思った。「漢字統合の弊害」に気づいたのは岡山時代、Simsun でレポートを書いたら「直」の字体が「中国の字体」(実際には日本でも使われていたのだが)になっているのを見て、後に Unicode そのものが批判されていることを知ってなるほどな、と思った訳だ。
和田氏は「日本漢字」だの「中国漢字」だのという「スクリプト属性」という(実は然程重要でない)概念に余り固執していない所が太田氏と異なる。
「IPA(国際音声字母)が表現できる」というのは一見 Unicode のメリットに見えるが、ISO 2022 対応の「IPA 用文字集合」(恐らく 2 バイト)を作って、太田氏の ISO‐2022‐JP‐2 みたく切り換えて用いる術のほうが有理だったかも知れない訳だ。何なら ASCII 等の通常の「a」と別に「頭のある a」(広口前舌音)と「頭のない ɑ」(広口後舌音)を「IPA 用文字集合」に含めてもよかった。通常の a のフォントが Futura 等でも混乱を免れ得る。逆に言うと Unicode ではそれができない。
まあ、今となっては何もかも仮定法第二でしか語れないのは、反 Unicode 党には辛かろう。
Twitter に Unicode を「雪を知らない人が作った『ぼくのつくったさいきょうのスキー場』」に喩えた人がいた。「雪」は言語とか文字とかのことだろう。
Unicode が言語学者や文字学者よりかはシリコンバレーのビジネスマンが作った文字集合のように思えるのは否めない。逆に言うと言語学者・文字学者主体で文字集合を作ったらどうなるかにも興味が湧くが、これも仮定法第二だろうか。
この前出川がバイクに乗る番組で、台湾人が「説中文」云々と喋っているのでちと驚いた。私は「◯文」と謂うと文字言語を指すとばかり思っていたのである。「ハングルを喋る」然り、文字言語を喋るにはコエカタマリンを飲まなければいけないのではないか、とも思っていた。
「台湾人に『漢語』と云うと『あなた中国人?』と訊き返された」という話もある。一方「蔡英文」を機械翻訳にかけたら「Cai English」と訳されたとも(本人はウェード式で Tsai Ing‐wen と名乗っている)。
ともかく、最近の台湾人の間では◯文は音声言語も含めるのだろう。